会社が買収された——職場は同じなのに変わった日常

曇り空の工場と一本道を描いたイラスト ― 正社員=安定、ではなかった

「親会社が変わる」

「会社が買収される」

そう聞いて、自分の働き方がこの先どうなるのか、不安に思ったことはないでしょうか。

実際に私はそれらを経験しました。

所属する会社は変わらないまま、残業が増え、休日が減り、給料の仕組みが変わり、住む場所まで変わっていったのです。

年齢に見合ったキャリアのある同世代の同僚が転職に成功する一方、キャリアの浅い私は、転職も簡単ではないと判断し、動けないまま職場に残りました。

でも、それは恥ずべきことではなかったと、今は分かります。

40歳を超えると、動けるかどうかは、自身の性格ではなく、これまで積んできたキャリアによる要素が大きいです。

この記事では、親会社変更で現場に何が起きたか、そして同じ職場で辞めた人と残った私を分けたものは何だったかをお話しします。

この記事を読んだ後、雇用が守られていても労働条件は変わるという現実を、判断材料として持ち帰っていただけます。

目次

ようやく充実した会社員生活を送れる、はずだった

会社が清算され、不本意な形で、親会社だったB社へ転籍した——前回の記事で書いたのは、そんな1ヶ月半の話でした。

B社は、私が勤めていたA社(最初の会社)に長年仕事を発注してきた親会社で、従業員が千人近くいる会社です。

50名ほどだったA社とは、規模も体制もまるで違いました。

A社の清算にともない、私はB社へ移ることになったのです。

正直に言えば、B社への転籍は、自分で選んだ道ではありませんでした。

ところが、いざ働いてみると、B社での日々は予想外に良いものでした。

福利厚生は手厚く、社員の士気も高い。

役職や階級ごとに「次は何を身につければいいか」の指導が明確で、私のように遅れて正社員になった人間でも、一歩ずつ前に進める道筋が見えました。

社会に翻弄され続けてきた私にとって、そこは初めて腰を据えられる場所だったのです。

20代は派遣やアルバイトを行き来し、35歳でようやく正社員になり、その会社も清算された。

ずっと何かに振り回されてきた自分が、ようやく安住の地を得た——転籍して4年目に入った頃、私は静かにそう感じていました。

仕事にも慣れ、職場の人間関係にも恵まれ、この先もここで働き続けるのだろうと、疑いもなく思っていました。

その矢先のことです。

一通の社内メールが、私の手元に届きました。

一通の社内メールから始まった

それは、いつもと変わらない業務の合間に届いた、一通の社内メールでした。

文面は事務的なものでした。

B社の親会社が事業を売却し、新しい親会社のもとへ入ることになった——要点だけを伝える、淡々とした連絡です。

A社が清算されたときのように、全員が集められて説明を受ける場はありませんでした。

私はそれを、パソコンの画面の文字で知ったのです。

最初に込み上げてきたのは、「不安」ではなく「現実感のなさ」でした。

勤務地も、机も、毎日会う同僚も、何ひとつ変わらない。

だから、ぴんとこなかったのです。

以前は「清算」という大きな変化を経験しました。

けれど今回は、職場も業務もそのまま。

だから、「親会社が変わっても、職場はあまり変わらないのでは」と考えていたのです。

しかし、ある二つの出来事を境に、事業売却が急に現実味を帯びてきました。

一つ目は、体制が変わる前に行われた、新しい親会社グループのユニフォームの試着です。

渡された制服に袖を通したとき、私は初めて「自分は別のグループの一員になるのだ」と、体で理解しました。

頭ではなく、身につけたもので分からされる。

妙な感覚でした。

二つ目は、新しい親会社の担当者による、全社員向けの説明会でした。

そこで告げられたのは、これからは新しいグループの就業規則が適用される、ということ。

働くルールそのものが、別の会社の基準に塗り替えられる。

発表から実際の体制変更までは、およそ半年。

準備が進む一方で、日常はこれまで通り続いていく。

その二つが並んで進む、落ち着かない期間でした。

ただ、職場の空気は、少しずつ変わり始めていました。

「自分たちの生活は、これからどうなるのか」。

そんな声が、同僚たちの間から、ぽつりぽつりと漏れ聞こえてくるようになったのです。

日常が、順番に書き換わっていった

体制が新しいグループに変わってから、私の日常は、少しずつ、そして確実に書き換えられていきました。

まず変わったのは、働き方でした。

新しい親会社は、売上を最優先する方針の会社でした。

工場は高い操業度を保つよう求められ、業務量はみるみる膨らんでいきます。

当然、残業は大幅に増えました。

それまで定時で帰り、自分の時間を大切にしていた社員から、潮が引くように職場を離れていきます。

とくに若手は、見切りをつけるのが早い。

一人、また一人と、静かに去り始めたのです。

働く時間が長いと、自分の時間を大切にする人は職場を選び直す。

当たり前のことが、目の前で起きていました。

次に変わったのは、休日でした。

年間休日が縮小されるという通知も、やはり社内に届きました。

それまで完全週休2日制だったのが、月によっては土曜日も出勤日になる。

今まで休みだった日が、少しずつ仕事の日に変わっていったのです。

そして、給料の仕組みが変わりました。

人事制度が新しいグループの基準に一本化され、主任や係長といった「部下を持たない役職」が、制度ごと姿を消したのです。

課長の下は、全員が一般社員。

それまで主任や係長だった人たちは、肩書きとともに、実質的な減給を受け入れることになりました。

これをきっかけに、今度は家庭を持つ中堅社員が辞めていきました。

若手に続き、現場を長く支えてきた人たちまでもが、職場を後にしていったのです。

働き方、休日、そして給料。会社の中のルールが、一つずつ書き換わっていきました。

それでも、ここまでは「会社の中」の話でした。

けれど、最後の一つは違いました。

自分の住む場所が、変わったのです。

私が暮らしていた社員寮は、もともと前の親会社が所有する建物でした。

グループが変わったことで、その寮を出て、自分で新しい物件を探さなければならなくなったのです。

家賃という固定費が、新たに肩にのしかかってきました。

働き方も、休日も、給料も、会社の中で起きた変化でした。

けれど、住む場所が変わるというのは、生活そのものが揺さぶられるということです。

日常が、順番に書き換わっていった

辞めた同僚と、残った私を分けたもの

働く環境がここまで変われば、辞めていく人が出るのは自然なことです。

実際、同僚は次々と職場を去っていきました。

そして私自身も、「このまま残っていいのか」と、辞める選択肢を真剣に考えました。

そこで私は、感情をいったん脇に置いて、辞めた場合に何が起きるかを、整理してみました。

まず、今回はA社のときとは事情が違いました。

会社都合ではなく、自分の意思で辞める「自己都合退職」になります。

つまり、次の仕事は、誰かが用意してくれるわけではなく、一から自分で探さなければなりません。

雇用保険の給付も、自己都合退職の場合は、おおよそ3か月分にとどまります。

一方で、B社での雇用そのものは、これからも守られていました。

辞めない限り、収入が途絶えることはありません。

そして、私はすでに40歳を超えていました。

今すぐ次の職場が見つかる見込みは、正直、立ちませんでした。

冷静に並べてみると、辞めるという選択は、当時の私にとって、あまりに分が悪いものでした。

では、私と同じ職場にいて、次々と辞めていった人たちは、なぜ動けたのか。

あとから聞いた話では、40代を過ぎて辞めた人の多くが、すでに次の就職先を見つけていました。

彼らに共通していたのは、新卒のときから一つの分野で長年積み上げてきた、確かなスキルです。

とくに設計や製造現場での経験は、転職市場で高く評価されていました。

ここで、私はようやく気づいたのです。

彼らと私を分けたのは、能力でも、努力でもありませんでした。

スキルを積み上げてきた「年数」だったのです。

分けたのは能力ではなく、スキルを積んだ年数

私は新卒のときに就職活動でつまずき、正社員になれたのは35歳。

職場の人たちが辞めていったとき、私の社会人としての経歴は、まだ10年に満たないものでした。

同じ40代でも、20年近いキャリアを持つ人と、10年に満たない私とでは、転職という壁の高さがまるで違います。

彼らがひと跨ぎできた壁は、私にとっては、一段も二段も高いものでした。

正直に言えば、「動けなかったから残った」というのが、ありのままの事実です。

それが、あのときの私に選べる、精一杯の現実的な判断だったのです。

残った場所で、見えたもの

大量退職のあと、職場の活気が少しずつなくなりました。

人が減った分、一人ひとりの業務量が増えていき、同僚の余裕がなくなったからです。

製造現場は慢性的な人手不足に陥り、土日に出勤するのが当たり前になりました。

減った人員の穴は、新しい人を採用して埋められるのではなく、他のグループ会社からの出向者で補われます。

管理部門も新しいグループと一体化し、一部の社員は親会社の本社勤務へ。

工場に残った人間に、業務はますます集中していったのです。

そして、売却前の、あの充実した環境は——。

かつては、役職や階級ごとに何を学ぶべきかを教えてくれる、丁寧な指導の仕組みがありました。

けれど、それを担っていた先輩たちの多くが職場を去り、制度は形だけを残して、機能しなくなっていきます。

私がこの会社で良いと感じていたものは、こうして、ほとんど失われてしまったのです。

「残ってよかった」と、単純に言うことはできません。

けれど、「残らなければよかった」と後悔しているわけでもありません。

さきほど並べた条件の通り、当時の私にとって、残るという判断は、それなりに理にかなったものでした。

ただ、この一連の出来事は、私の心の中にあった最後の思い込みを、はっきりと剥がしていきました。

正社員でいさえすれば安定する」——そう信じていた自分が、もういなくなっていました。

雇用そのものは、確かに守られていました。

それでも、働く時間も、休日も、給料の決まり方も、そして住む場所さえも、会社の判断ひとつで変わってしまう。

自分の生活の土台を、会社にすべて預けたままにしてはいけない。

そのことを、私はこのとき、頭でははっきりと理解したのです。

一方、そこまで分かっていながら、私は、何も変えませんでした。

勤務地が変わったわけではないため、どこか少し余裕があったのかもしれません。

「いつか、ちゃんと考えなければ」。

そう思いながら、私はその「いつか」を、先延ばしにし続けたのです。

気づくことと、動くこと。

この二つは、同じではありませんでした。

頭で分かっていても、体はなかなか動かない。

その隔たりを実際に越えることになるのは、もう少し先——次にやってくる「出向」が、きっかけでした。

まとめ:雇用は守られても、働く条件は変わる

親会社が変わってから、私の日常は順番に書き換わっていきました。

残業が増え、休日が減り、役職の仕組みが変わって給料が下がり、社員寮を出て住む場所まで変わったのです。

一方、雇用はずっと守られていました。

それでも働く条件は、会社の判断ひとつでここまで変わる——これが、私が一番お伝えしたかったことです。

同じ職場で多くの同僚が辞め、その大半が次の職場を見つけていきました。

彼らと私を分けたのは、能力ではなくスキルを積んだ年数でした。

新卒でつまずき、35歳でようやく正社員になった私には、40代での転職の壁が高すぎたのです。

動けなかったのは、性格ではなく経歴の問題でした。

だから、同じように動けずにいる方も、自分を責めることはないと思います。

「気持ちはあるのに動けない」という状態そのものについては、気持ちはあるけど動けない、を整理した話でも詳しく書きました。

ただ、正直に言えば、私はこの経験のあとも、すぐには何も変えませんでした。

「正社員でいれば安心」とは思えなくなったのに、では何をすればいいのかは分からず、漠然とした不安を抱えたまま、日々の業務に追われていったのです。

その不安が「自分の将来を本気で立て直さなければ」という具体的な行動に変わるのは、次にやってくる「出向」がきっかけでした。

気づきと行動の間にある深い溝の話は、次の記事に続きます。

いーしげ
氷河期世代として、非正規雇用や一人老後の不安と向き合ってきました。

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